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ちいさなちぃちゃん

ピアノが弾けて猫がいればそれで十分なのです。

普通を求められても

私は幼い頃から

「これは私が大きくなったらちゃんと出来るのか?」

ということばかり考えている子供でした。


例えば3歳の時、お米を研いでいる祖母に
「それは○○(ワタシ)にも出来る様になる?」と聞いたり、味噌汁を作っていれば
将来そのツルツルとしたワカメを切れるようになるのか不安でしかないから
「ワカメを切らせてくれ」と頼むような子供で、

幼稚園の頃、「買って欲しい」と母にサンリオの雑貨をせがんだら似たようなもの持ってるでしょ、と却下された時には
「私が母親になったらこの様な時どう判断するだろうか?」と考えたり。
(サンリオは可愛いから絶対いくらでも買ってあげると誓った。)


一事が万事、子供の頃はずっと
「私に出来るか?」を考えてひたすら心配していた 
そんな子供だったので、人生に訪れるドアは全て開けるべきだと思っていたし、そこに敵が現れるならば
「倒す」選択しかないと思っていました。
やりたいのか、やりたくないのか
ではなくて、
「出来るのか?」


そんな子供だったので、ピアノを習っている時の私の頭の中は
「私が大人になったらピアノを人に教えることが出来るだろうか?」
という思考でした。

なもんだから、普通の子の楽譜の落書きは
自分がわかりやすい様に音符に階名を書いちゃったりする類いなんですが、私の場合



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先生の字をなぞってみたり
先生の字の様に見える様に字体を繋げて書いてみたり
先生が言いそうなことを書いてみたり。笑

生徒としてより、目の前の「先生」に
私はなれるのだろうか?を考える子供でした。


この思考癖はまぁ大人になってもあまりかわることなく、実際にやらなくても
例えば美術館などに行くと鑑賞ではなく
「これ私に作れないかなぁ?」といった視点で
どうしても観てしまいます。

訪れたドアは必ず開けると
言ったように、過ごして来たので
私は結婚も出産も同居も開けるドアでした。

ただ、その結婚や出産や親との同居が
世間一般から「普通」だったり
「経験してなんぼ」と考えられている為に
後ろ指を差されないわけですが
訪れなかったら開けないドアだったと思っています。

私の娘2人は

「結婚はしない。」
「子供は絶対に産まない。」

のだそうです。

私は彼女達ではないので何も言える事はないです。

ただ、それも開けないというドアを開けるのだと思っています。開けない空間。
そこにはそこの良さもあれば、敵もいるし、困難も立ちはだかるはずなのです。

でも、この話をすると殆どの人が
「えーっ!そんなこと若いから言ってるだけで
結婚もして子供もちゃんと産むよー。」
と言われます。

すっごい私的には引っかかります。

若いから?
ちゃんと?

3、4歳から将来出来るだろうか?と考え
貫く子供の子供です。

藍は青より出でて藍より青し

なんじゃないのですかね。(^^;;

「無理だと思われるからやめておこう」
そう、判断しているのだと思います。


二女に、「もしさ、産んだらどうする?」
と聞いたら、
「無理だからママに預ける。」
と言っていました。

預けられたら育てちゃうでしょうね。
私だったら。笑

目の前のドアを開けて意地でも倒しながら
突き進む母を見て、
「あぁはなるまい。」と思っているんだと思います。(^-^;


開けるも、開けないも

人それぞれ背景があって、その選択が
行き着く先だった、必然なんだと私は思うので


産まれた瞬間から、
自然分娩だったのか
母乳で育ててるのか
何歳で言葉が出たか
オムツが取れたか
幼稚園で座っていられるか
学校へちゃんと毎日行けてるか
部活で大会に出たか
大学を出たか
就職したか
出世したか
家を買ったか…

結婚するだとか 子供を産むだとか
その子がちゃんと結婚するとか
両家の仲はいいのかとか
孫が生まれるとかその孫は何人かとか
その孫と仲がいいとか、誰がランドセル買ったかとか、老人会では友達と上手くやれているのか、血圧の薬は飲んでるのか、コレステロール値は高いのか、膝は痛くないのか、
墓はあるのか、墓守りはいるのか…

いやいや、いつまで
「普通」にしがみつくの 
それ普通じゃないよ。笑

と、思ってます。



みんなの言ってる「普通」を求め続けるのは
しんどいこと。
その、「普通」を演じてもツラいと思います。


そんな私にも
恥ずかしいから「普通」がいいなぁ
と思ったことが2つ。


母の作る弁当が豪華すぎて恥ずかしくて
貧乏で恥ずかしい子が弁当を隠しながら食べる様に、私も隠しながら食べていました。
「普通の弁当なら隠さないで食べれるのに」

それから
母の買ってくる可愛い服や靴。
私の感性もそれは可愛いと言っているのだけれど、そういう服や靴を誰も履いていなくて
皆んなの着ているヨーカ堂のスカートや
皆んなが履いているマジックテープのついた
りんごのマークの靴やアニメの絵の靴を履きたいと思ったものでした。
でも、根底には「さすがママだぜ👍」と
いう思いはあったのだと思います。
弁当は美味しかったし、可愛い服や靴だったのだから
悲しくはありませんでした。

なんとなく過ごして考えもしなければ
みんなと一緒が落ちついてみえるものなのでしょう。


でも、考えられる人にとって
みんなが求める「普通」は意地悪に感じたりもするものです。



「普通」なんて気にするなー♡



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「猫って『普通』こんな鳴かないよねとか
言うニャー🐾」

いやー、普通じゃないから
ちぃちゃんは! 📣🐈  笑